Web版 化学プロセス集成
北海道人造石油物語

化学工学, 12号,  855-857 (2013)

「化学工学資料のページ」に戻る
 

 


北海道人造石油滝川工場

1. はじめに−石炭液化技術の歴史−

石炭を液体の燃料油に転換する技術はドイツ,イギリスで早くから開発されている。その最も容易な方法は石炭を500〜600℃で乾留して燃料油やタールを得る低温乾留法である。しかしこの方法は収率が10%と低く,残ったコークスの処理が問題である。

これに対して高圧下で石炭・重油ペーストに水素を添加して,直接液化する方法がベルギウスにより1913年に開発された。この水素添加法は褐炭原料にも適用できるので1930年代に欧州で広く普及した。1940年のドイツの実績でも水素添加法による人造石油は15万トン/年であり,以下のフィッシャー法の7万トン/年を上回っていた。普通は石炭液化とはこの直接法の略称である。日本においても当時の海軍がこの方式に注力していたが,特許の関係および技術上の問題により,工業化は数工場のみであった。

フィッシャー法は先ず石炭を完全に分解して水性ガス(CO, H2)を生成して,水性ガスから触媒を用いて液状炭化水素を合成する方法で,間接液化法と呼ばれる。狭義ではこの間接液化法によるものを人造石油とよぶ。水性ガスからの人造石油合成には適切な触媒の開発が必要であったが,1920年代にフィッシャーとトロプシュにより珪藻土担体のコバルト触媒を用いた常圧下の合成法が開発された。 このフィッシャー法はルア ー・へミー社 (Ruhrchemie,ルール化学)により1936年には実用化されて,1941年にはドイツで9工場が操業していた。

日本では三井鉱山(三井化学)が目黒の研究所で1920年頃から先駆的に石炭液化の研究を開始した。しかし結局独自技術はあきらめ,フィッシャー法の実用化を受け,直ちに(1937年)その特許を取得し,ルア ー・へミー社の協力のもとに大牟田に人造石油製造工場建設を開始した。主要な装置・機械類は大部分ドイツからの輸入であった。1940年に操業開始したこの三池石油合成工場は順調に稼働し,1943年(昭和18)実績で1.1万トン/年の生産をおこなっていた。

2. 国家戦略としての人造石油と北海道人造石油の設立

日本では満州事変以降,軍事目的から液体燃料の自給体制確立の要望が強まる。1937年に人造石油製造事業法が制定され,国家資金提供のための帝国燃料興業が設立された。あわせて人造石油振興7カ年計画がつくられ,満州を含む全国で160万トン/年の人造石油製造が計画された。この中で石油合成法(フィッシャー法)による工場を4万トン/年を標準工場として11工場,直接液化法によるもの10工場,低温乾留法が66工場を建設するという誇大な目標がたてられた。これに応えて実際に1939年までに21の工場が運転および建設予定となった。

三井鉱山は当初から硫黄分の多い三池炭より北海道炭の原料利用を考えており,その帝国燃料興業の半額出資を受け,北海道炭鉱汽船と共同で1938年に北海道人造石油を設立した。北海道人造石油は滝川,留萌,釧路の3工場の建設を計画した。滝川の地は産炭地に近いことと交通の利便性から選定された。滝川工場は1939年夏に建設着手され,1942年末に は試運転操業を開始した。天塩炭原料を目論んだ留萌工場は1939年に起工したものの,資材不足と軟弱地盤により建設が遅れ,操業に至らず終戦を迎えた。しかし留萌工場併設の留萌研究所は3階建ての本格的な施設が1940年に完成して,京都大学・喜多研究室と連携して鉄触媒の開発に成果をあげた。釧路工場は遂に未着工に終わった。

滝川工場
工場全景(工事中)

3 滝川工場の人造石油製造プロセス

滝川工場は原料石炭70万トン/年,製造揮発油14万トン/年,灯油3万トン/年,ディーゼル油4万トン/年の規模で計画・建設された。この石炭使用量を現在の石炭火力発電所(90万kW)での石炭使用量190万トン/年と比較してもその規模が推し量れる。図1にプロセスの構成と図2〜6に各工程の写真を示す。

原料石炭は先ずコークス炉(オットー式,40炉)で高温乾留されて,コークスとコークス炉ガスを生成する。生成コークスを水性ガス発生炉内で水蒸気と反応させることでCOとH2が得られる。同時にコークス炉ガスは水蒸気を加え ,メタン分解装置(カウパー炉(蓄熱式加熱炉))で改質をおこない H2とCOを得る。原料ガス量は(コークス原料):(ガス原料)= 7 : 3 である。水性ガスは酸化鉄(黄土)による無機脱硫装置および有機脱硫装置で脱硫する。合成ガスはCO:H2=1:2に調整され,10気圧程度に昇圧して合成炉に送入する。合成炉は2重管式の触媒反応器であり反応温度は200℃である。1000 Nm3/hの処理量の反応器が約60基設置された。触媒はフィッシャー法オリジナルはコバルト触媒であったが,独自開発の鉄触媒による反応器が追加された。生成物はアルカリ洗浄−水洗−油洗による分留装置で精製して,最終的に蒸留塔で揮発油,灯油,ディーゼル油に分離され,各々出荷される。

滝川工場は敷地面積117 ha, 従業員数は2,000名を数え,当時「東洋一の化学工場」と称されていた。


図1 滝川工場のプロセス(数値は計画量で単位は[万トン/年])

コークス炉
図2 コークス炉(40室,70万トン/年)

北海道人造石油滝川工場メタン分解炉
図3 メタン分解炉(カウパー式(左),蓄熱塔(右))

北海道人造石油滝川工場合成工場
図4 合成工場

北海道人造石油滝川工場合成炉
図5 石油合成炉(2重管式, 1000 Nm3/h, コバルト触媒 42基, 鉄触媒 30基)

北海道人造石油滝川工場精製工程
図6 分留装置(左列:アルカリ洗浄,中列:水洗塔,前列:油洗塔, 各々2塔並列, 奥が製品蒸留塔)

4 滝川工場の生産実績とその後

滝川工場の実際の人造石油生産実績は,当初の計画には遠く及ばず,1942年:0.12, 1943年: 0.13, 1944年: 0.48, 1945年(終戦まで): 0.34万トン,総計でも1.1万トンであった。終戦までの稼働は4年間で,結局兄弟工場である大牟田工場の生産量を上回ることはなかった。なお,この間国内の人造石油生産(液化法など含む)も実績は6〜10万トン/年であり,人造石油製造全体としても目的である 軍事用にはあまり貢献できなかったのが現実であった。

 滝川工場の製品品質としては,揮発油は直鎖パラフィンが多くオクタン価は53程度で,ガソリンエンジン用としては低品質であった。一方,ディーゼル油は性能が良く ,戦時中は艦船向けの高級な燃料として貴重なものであったという。

プロセス的には所期の製品が製造可能であったにもかかわらず,生産量が目標に達しなかったのはやはりフィッシャー法の要である触媒の問題が大きかったようである。コバルト触媒は活性が200日程度で落ちるのだが,コバルト触媒の大牟田からの補充が不十分に終わった。これはコバルト原料が高価であり,戦時中には入手が困難になってきたためである。この対策として京大と留萌研究所で開発された鉄触媒による合成炉が30基追加設置された。しかし結局80近く設置された合成炉も実稼働数は最高20基であったという。

また,石炭原単位の実績も合成石油1トンあたりの設計値(石炭5〜6トン)より低い約10〜12トンの原料石炭を要した。これも稼働合成炉が少ないため,これから得られるはずの熱源分に補充石炭燃料を使用したためとされている。

滝川工場は幸いにも戦災を免れたので,戦後はコークス炉ガスを利用した硫安,アンモニア製造などの民需転換で操業継続の努力がなされた。しかし化学工業の基盤のなかった北海道で,単独のガス化学工場の存続は経営的に困難であった。結局滝川工場は1952年に工場閉鎖・解体となり,北海道の原野に突然出現した巨大工場は,建設から10年余りで夢のように消えうせた。現在その広大な跡地に当時をしのぶ遺物は人石記念塔(1962年)のみである。 (研究所は自衛隊施設となっている。)

5 おわりに

2013年3月,半世紀を超えて滝川工場の記憶はよみがえった。日本化学会の第4回化学遺産認定に「フィッシャー・トロプシュ法による人造石油に関わる資料」として戦前・戦中の京都帝国大学における人造石油の研究、および北海道人造石油株式会社滝川工場でのその実用化に関わる資料・試料類が選定された。第93春期年会において認定証が京都大学化学研究所佐藤所長と滝川市教育委員会の関係者に授与された。その選定趣旨には「人造石油に関する研究と工業化は戦後の石油化学工業につながる事業であり ,京都大学では燃料化学科の設立,ならびに学界・産業界に多数の有意な人材を送り出したことに繋がります。」と記されている。

なお,筆者は北海道留萌市の出身である。子供のころ近所の沼地で遊んでいたが,そこは道路が縦横に走り,道路端に巨大なコンクリ−ト基礎が点在している,古代遺跡のような不思議な場所であった。 その一帯は「じんせき」と呼ばれていたが,そこが北海道人造石油留萌工場の未完の跡地であったと知るのはずっと後のことである。 現在でも化学工業不毛の地である北海道に,かつて石炭由来の化学工業を興すという夢が一時でも実現したことがあった。現在当方が化学工学を専門としているのもなにかの縁であり,今回の北海道特集に故郷の事績の記録を加えさせていただいた。


(追記) 滝川工場の遺産

戦後まもなく 滝川工場は蜃気楼のように消え,滝川工場の生みの親である工場長の渡辺四郎氏も東京大空襲で既に亡くなっていた。 しかし北海道人造石油の技術者と装置は新潟の地へと伝わってゆく。

三菱ガス化学(当時日本瓦斯化学)新潟市榎工場に移設された旧滝川工場のカウパー式メタン分解炉(1956年)
(皇太子(当時)行啓時の写真(右端が榎本社長,皇太子の左が江口副社長))

江口孝は海軍徳山燃料廠で18年にわたり液体燃料としてのメタノール製造技術を研究してきており,戦前既にメタノール燃料技術の第一人者であった。江口は 海軍の停年の関係もあり,北海道人造石油の発足直後に入社し,研究部長として滝川と留萌の研究所所長を兼務し ていた。戦後に留萌研究所は装置・機材を活用した「留萌水産」として再出発するが,江口は引き続きその責任者として,畑違いの様々な食品関係事業に努力する。しかし滝川工場(滝川化学)の倒産と同時期(1952年)に留萌水産も倒産となり,残務整理中 の1951年に江口は留萌を去る。

榎本隆一郎も元海軍中将であり,戦時中は海軍の燃料技術および製造を統括し,要職(軍需省燃料局長)を務めていた。 商工省燃料局人造石油課長(1938-1942)時代には,人造石油事業全般を推進する立場にもあった。戦後,榎本は新潟県産の水溶性天然ガスを原料としたメタノール製造事業を企画し ,1951年に日本瓦斯化学を創立する。 江口孝はこれに参画し,新潟の地でメタノール生産を率いることになる。

同社新潟市榎工場における最初のメタノールプラントは海軍徳山燃料廠の機器を転用してつくられた。(ここに江口が退職金代わりに持ってきたという留萌水産の精留装置が使われた。) メタノール技術に精通していた江口の指導により,榎工場では早くも1952年9月にメタノール製造が開始された。この最初の300 ton/月 のプラントは翌年1000 ton/月に増強される。このときにスクラップ寸前であった旧滝川工場の大型のカウパー式メタン分解炉一式がはるばる北海道から移築され,榎工場のランドマークとなった。(写真) 原料はコークス炉ガスから天然ガスに替わったが,この旧滝川工場のメタン分解炉は新潟地震(1964年)を乗り越え,1970年頃まで20年間も使われた。 このように滝川工場の遺産はその後の日本瓦斯化学−三菱瓦斯化学を通じ日本のガス化学工業の発展に大きく貢献したのである。


参考資料
1) 石田亮一:石炭液化物語,中央出版印刷(1990)
2) 丹治輝一・青木隆夫:昭和10年代の北海道における人造石油工場と戦後民需生産への転換−北海道人造石油滝川工場と滝川化学工業,北海道開拓記念館研究紀要,第25号, p. 171 (1997)
3) 渡邉眞一:今生かしたい昔の人造石油技術,化学技術誌MOL,昭和54年11月号,p. 61 (1979)
    (渡辺眞一氏は工場長渡辺四郎氏のご子息。技術者として滝川工場勤務の後,戦後は早稲田大学理工学部教授を 務めた)
4) 乾 智行:石油合成の歴史を築いた人々 第T部 「人造石油」と呼ばれた草創期, ペトロテック, 第23巻5号, p. 377 (2000)
    (乾氏は当時の喜多研究室から発展した京大燃料化学科(石油化学教室)の教授)(秘話人造石油 : 鉄からゼオライトへ, 化学と教育(1989))
5) 滝川市史 (1962)
6) 高橋明雄:北海道人造石油留萌研究所の軌跡,留萌市海のふるさと館 紀要第6号, p. 31 (1995)
7) 古川 安:化学遺産の第4回認定3 認定化学遺産第020号 フィッシャー・トロプシュ法による人造石油製造に関わる資料,化学と工業,Vol. 66, No.7,  p. 544 (2013)
8) 加藤恭享:日本瓦斯化学工業株式会社創立15年史,黎明社(1966)
9) 榎本隆一郎:回想八十年−石油を追って歩んだ人生記録−,原書房 (1976)

写真資料)滝川工場は北海道滝川市郷土館所蔵 ,榎工場写真は三菱ガス化学提供

広報たきかわ 平成25年12月号 特集/滝川人造石油物語ー滝川の空にかかった蜃気楼ー



 

inserted by FC2 system